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F自身はすでに見たように、記者としてN銀取材が長く、金融制度調査会で新N銀法の審議に加わった経験もあった。
ジャーナリストからの起用は、不祥事を起こしたN銀の内部改革を進めると同時に、新法が求めるN銀の透明性を実践する期待も込められていた。 「Nさんのほうが適任だ」。
Fは、同じ金融制度調査会委員でN銀法改正で一緒に論陣を張った共同通信社OBのNに、お鉢を回そうとした。 Nも経済ジャーナリストとして著名で、長年、同調査会の委員も務めてきただけに、金融行政・政策に関しては大蔵官僚やN銀マンも一目置くほど詳しい。
過去二回(一九五七六○年、六四六五年)に起きたN銀法改正論議を両方とも現場で取材したという経験の持ち主でもある。
Nのところにも、総裁・副総裁人選の混迷を見たある知り合いから「君も覚悟しておいたほうがいい」との忠告が届いていた。

だが、Nは七十歳の誕生日を迎えようとしていた。 「僕はやじ馬。ジャーナリストからN銀に入るならF君がいい」
Nにも逆に推薦され、Fは万事体した。
仙台生まれだが、教師で比較言語民俗学者の父の移住に合わせて満州に渡り、遼寧省の安東市で終戦を迎えた。 この安東市の安東興業銀行頭取が一重野の父、勝だった。
FはJ通信の経済記者として活躍、大蔵省、N銀、経団連などの取材経験のほか、オタワ、ワシントンの特派員、解説委員長などを歴任した。 金融政策を分析、批判する経験は豊富だが、政策のかじ取り役に転じることにはさすがに予定通りに副総裁に昇格したYは、企画畑を歩んできた政策通。
手堅い手法でM、Fの厚い信頼を得ていた。 三十九年入行のYが抜擢されたのは、Fの信頼に加えて、急遼、総裁になるHと、もう一人の副総裁のFがともに、金融政策の専門家でないことも考慮されたとみられる。
そのYが担う役割の重さは当初のF構想とは違って倍加していた。 公定歩合○・五%の超低水準の中で、景気低迷が続く国内の金融政策を実質的にリードしていかねばならないためだ。
しかも、新N銀法では、金融政策の決定権限は執行部ではなく政策委員会に完全に移譲される。 執行部として政策委に臨む三人の総裁、副総裁の中で、政策の継続性と新たな政策展開の全体のバランスをとる手綱捌きは、Yの手腕に委ねられた形でもある。

当時、M辞任が確実視される混乱の渦中で、私は何回かYと会った。 理事になってようやく二年。
行内を覆う不祥事に揺さぶられたYは、「(不祥事対策は)手の打ちようがない。 どうしたらいいのか」と動揺していた。
私はその様子を見て、「まさにN銀が新たな変化を求められている。 この難局は外部の力よりも、N銀マン自身が切り開くべきだ」
「あなたも総裁になるくらいの決意でやったらどうか」と、生意気にもYを励ましたのを覚えている。
だがYの反応は、みなぎる決意というよりも、優柔不断、困り果てた印象を終始漂わせていた。 あるN銀OBが評価するように、Yは優等生だが、本来はリーダータイプではなく、むしろ参謀格。
「我が道を行く学者」と評価する向きもある。 どう晶眉目に見ても、Fに代わってN銀版「七人の侍」を率いる勘兵衛タイプではない。
その金融政策の手法もよく言えば手堅いが、悪く言えば柔軟性に欠けるオーソドックスなもの。 謹厳実直なYの性格そのものだった。
金利政策が限界に近づく中で、デフレ対策をどう打つか、政策委員会の論議をどうまとめるか、あるいはHを含めた執行部の足並みをどうとるか、眼前の不祥事対策をどう幕引きに持っていくか。 先行きが全く読めない中で、Yは一人、誰よりも重い荷を担った暗い気分だったのではないか。
そうだとすると、新執行部は明確なリーダーシップを欠いた緊急対応の布陣のまま、船出したことになる。 その船脚にみられた慌ただしさは、その後の金融政策の足取りにも浮き出る。
「このような人間に、失墜したN銀の信認を回復させる大任を期待することは無謀」Sは父子二代にわたるNマン。 父の義彦は、旧Nの前身であるS商店のメーンバンクの台湾銀行に務める銀行員だった。
S商店が昭和恐慌で倒産した後、同商店の番頭で後にHが女婿となるNらとともに、旧Nの創立に参加した創業者の一人とされる。 生粋のNマンである佐々木の告発は私憤なのか、公憤なのか。

HのN時代を見てみよう。
「N銀総裁にH氏」の報に接して、私が深夜のロンドンでパソコン送信の処理に苦闘していたころ、わたる東京でも複雑な思いに駆られた人がいた。
元N監査役のS弥。 Sは旧Nに入社、主に金属畑を歩き、常務を経て八九年から五年間、監査役を務めた人物。
Hより三歳年下で、N時代のHをよく知る人の一人だ。 Sは当時をこう振り返る。
「最初、テレビでHがN銀総裁に就任することを知り、ホッとした。 これで彼がNから出ていってくれる、という気持ち。しかし、しばらくしてよく考えてみると、彼がNをメチャクチャにしたように、今度はNをメチャクチャにするのではないかと思い至り、怒りを覚えた」
Sは居ても立ってもいられず、首相の橋本宛に直訴の手紙を投函した。 「(Hは)N銀の忌むべき体質を天性のものの如く自分の身につけた人物。 (鼻持ちならないお上意識などを)そのままNに持ち込み、Nの風土を汚染したうえ、一九八四年社長に就任るや、夷ブルに乗り遅れるな」と支離滅裂な暴走経営を指揮して、Nの経営を破綻寸前にHがN銀理事からNに転じたのは一九八一年六月。

同社はグラマン・ダグラス事件をはじめ、香港での百六十三億円の為替差損事件、現職常務の五千万円横領事件などの不祥事が毎年のように起き、経営危機に瀕していた。
そこで信用の回復のため、社長のU三男はメーンバンク一和銀行頭取の川勝堅一のアドバイスも得て、N銀総裁のM春雄に直接交渉、Hを三顧の礼で迎え入れた。 Hは、Nを創設した永井の血縁だった。

しかし、金融政策を担うN銀から、生き馬の目を抜く商社の経営幹部への転身は異例中の異例。 Uの思惑には、Hの家系を強調することで創業者の原点に戻る決意を社内外に示すとともに、N銀の信用で同社のイメージを一新する狙いもあったと思われる。
Hは当時、ある地方銀行に頭取候補で天下りすることが内定していた。 だが、Uの懇願がMの心を動かした。
この時、Mは「本当にH君でいいのか」とUに念を押したとの逸話もある。 専務でNに入ったHは、副社長を経て、三年目の八四年には早くも社長に就く。
「まだ商社経営は無理」の声も上がったが、会長に退いたUは、自らと副会長の近藤鳩一、社長Hの三人で構成する「社長会」や、副社長を一気に七人体制にして脇を固め、実務に疎いHの支援体制を組んだ。 当時、Hは五十九歳。
大手商社トップの中でも「若手」だ。 実際にHは、社長室のドアを社員に開放したり、四十歳前後の課長クラスが経営全般を自由に論議する社内委員会を発足させるなど、従来の年功序列の枠を越えた経営改善を目指した。
だが、社長就任の翌年がプラザ合意。 円高の加速ととも、バブルが形成されていく時期でもあった。
その真っただ中に、最高経営責任者となったHは突入に、バブルふしていった。


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